永岡八幡宮
社名 永岡八幡宮  
祭神 応神天皇 第14代仲哀天皇の第4男、母は神功皇后 第15代天皇
  神功皇后 いわゆる三韓征伐のあと、現在の糟屋郡宇美町で応神天皇をお産みになられた。と言われている。
  玉依姫命 豊玉姫命の妹で、初代天皇神武天皇の母。
社格   村社(明治5年に定めらる)
由緒   不詳  以上は『日本書紀』による

 当八幡宮がいつごろ建立されたかについては、分かっていないが、古くから永岡村の産土神として祭祀されていたようです。

江戸時代後期に書かれた『筑前国続風土記拾遺』に、「本村に在。産神也。所祭。応神天皇・神功皇后・玉依姫命也。祭日、九月十九日。祭祀は不老氏・山内氏なり。」との記述が有ります。神官は太宰府の不老氏と原田にある筑紫神社の神官山内氏が担当していました。

 また、『筑前国続風土記拾遺』より少し前に書かれた『筑前国続風土記付録』には、「八幡宮 シロ 境地に祇園神有り」と出ています。「シロ」とは地名で、「城」です。現在は「城ノ内」という小字として残っています。戦国時代には筑紫広門の出城があったと言われていますので、このような地名になったと考えられます。「祇園神」は現在まで残っている石碑のことで、天明元年(1785)のものです。

(境内の由緒書きによる)


松尾宮
社名 松尾宮
祭神  大山咋命 別名 山末の大主神という。大年神の子。須佐之男神の孫。
社格  無格社(永岡八幡宮の境内神社)
由緒  不詳
社殿  大正九年十月 内務省より合併許可 同月 移転建立

 昭和四十一年三月 改築 現在に至る。  (由緒書きによる)

 現在の地に祭祀されたのは大正九年で、それ以前は裏側の道路で隔てたお茶畑のある所にあったそうです。(現在は太陽光発電所)

 江戸時代後期に編纂された『筑前国風土記付録』には「松尾宮 マツオヤマ 神殿方五尺・拝殿二間三間半 祭礼六月二九日・奉祀福生坊 産神也。大山咋命を祭る。鎮座の初詳ならず。社地に神木の松一株有り。」と記述されています。この本以外は、永岡村の産土神を八幡宮にしていますが、ここでは松尾宮が産土神となっています。

 由緒は不詳ですが、明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」には、

「村ノ北一町。木殿(キノドン)山ノ上ニアリ。里伝ニ、甚ダ古キ社ニテ、(神功)皇后、熊襲御征伐ノ時、此処ニテ、御腹痛シカバ、此神ニ祈リ玉ヒテ、癒タリト云。」と、その当時この地に残されていた伝説が紹介されており、松尾宮がかなり古い歴史を持つことを窺がわせています。

 この松尾宮の宮司をしていた「福生坊」は宝満山の山伏です。石段の上にある鳥居は福生坊が寄進したものです。安永3年(1774)の銘があります。

 また、松尾宮は酒の神様あるいは商売の神様として信仰をあつめていたようです。弘化三年(1846)の社殿の再建に際しては、近在の酒造屋、庄屋、商人など約30人が寄進しています。嘉永二、三年の拝殿の改築にも合わせて約23人が寄進していますが、遠くは田代や木山口などの地名が見られ、幅広い地域で信仰されていたと思われます。

庚申尊天

松尾宮の裏 藤棚の下に

境内社

小彦名神社・愛嶽神社・鹿島神社

祇園神・猿田彦大神・地蔵堂

毎年10月1日に座のみなさんで注連打ち